僕たちを導く走路 part 1 (1)

Dec 11, 2012 11:31


ドンヘが語ります。 語り倒しますw

原作:  Tracks That Lead Us by drawingintheair  
Pairing : ドンヘ / ヒョクチェ、イェソン
Rating: PG-13
翻訳: ミイナかどきち  
監訳: ゴンコ

役に立たない レビュー






僕たちを導く走路 part 1 (1)

9月。 陸上競技のシーズンが始まる。

この夏中、毎朝6時と毎夜9時のランニングの積み重ねで、足下のスニーカーは擦り切れて泥だらけだ。
陸上競技場のトラック。 
この第2の肌のように馴染んでいるスニーカーに、ドンヘはつま先をくぐらせた。

フットボールのシーズンは終わり、今は7時からの朝練もない。 
緑のフィールドの芝生に点在していた剥げた部分や、歩道の景観を損ねいたチョークのにじんだ痕も、もう消えて無くなった。
ドンヘはフットボール選手の俊足ぶりは十分認めているが、本来人間が走る理想的な姿であるとは決して思わない。 ゴールがあるあの地平線に辿り着くには、相手チームが繰り出す障壁が多すぎる。

あまりに早朝で、トラックにはまだ誰もいない。 
ほとんどの高校生にとって朝の5時半は願わくばまだ寝ていたい時刻である。

ドンヘは両手のひらをスタートラインに押しつけると左足母指の根元に体重をかけ、3,2,1,とカウントダウンをして蹴り出した。
地平線はすぐそこにあった。

*

「シーズンの始まりって大嫌いだよ。」

「おい、始まるぞ。 ちょっと黙っててくんない?」

イェソンは溜息をつくと、ドンヘがまるでこの世の全ての欲求不満の元凶であるかのように彼に向かって荒々しく身振り手振りでまくし立てた。
「だからイヤなんだよ! 入団テストとなると、お前は完全にアタマがおかしくなって…マジで殴りたくなる!」

「おかしくなんかなってない。」
ドンヘは異議を唱えると、落ち着かない手をスウェットシャツのポケットに滑り込ませた。
「ただ…ちょっと緊張しているだけだよ。」

イェソンはドンヘの向こうずねギリギリに野外観覧席を蹴りつけた。 
ドンヘは激怒して金切り声を上げた。

「これだから…。 あのな、お前はリーグ最速のランナーだ。 けどいつか新入りに抜かれるんじゃないかってビビってやがる。 まったくあんのサディスティックなクソ女コーチのせいで毎年入団テストを受けるハメになってるこの俺の事も考えてみろ? ま、俺が平然としてるから、それも気に入らないんだろうけどな。」

ドンヘがイェソンを慰めるか嘲笑うかする寸前、ホイッスルが素早く2度鳴り、最初のランナー達の出番が来た。
ドンヘは素早くイェソンを押しやり、彼の隣に自分が座るスペースを確保した。 イェソンはその頭にげんこつを喰らわせたい衝動に駆られたが、取りあえず今はドンヘが自分の腕を掴んで緊張を解すがままにさせておいた。

「誰だあれ?」
イェソンは一列に並んだ最後のランナーを顎でしゃくった。

「知らないな。」
ドンヘはそう言うと、その肢体にざっと目を走らせた。
ランナーのようには見えない。 ふくらはぎは細すぎるし肩幅は大きすぎる。 小さい尻に繋がるウエストはやや内側にカーブを描いてくびれている。 オフシーズンを体力維持に充てようとしている水泳部員なのかも知れない。
ドンヘには彼が脅威の存在とは思えなかった。 たとえ獲物を狩るために水中を最速で泳ぐサメだとしても、陸に上がれば窒息死だ。

ホイッスルが再び鳴り、ランナーたちは一斉にスタートラインに片膝をつけた。

ドンヘはトラックに駈け降りていきたい衝動を抑えていた。 
そいつのポジションは何もかも間違っている。 そいつの左足は後ろに下がり過ぎているし、肘は胸とは逆の方向に揃ってない。 つま先は真っ直ぐ尻に平行に位置していない。 
ドンヘの指がイェソンの肌に食い込んだ。 その爪がイェソンの強肩に深く食い込む前に、彼はドンヘの手をピシャリと叩いた。

ホイッスルが再び鳴った。

それは一秒にも満たないはずなのに、まるで何時間にも感じられる瞬間だ。 
有望な選手達が一斉に前へ飛び出した。 頭部を低くして、押さえ込まれて張り詰めたその両肩は、目に見えないシールドを破る時が来ると解き放たれ、つま先を通じて空中に舞うことの自由を味わう。

そいつが最後のカーブを曲がった所でドンヘの脈拍は速まった。 
猫背だし、メチャクチャなフォームで、ホイッスルが鳴ったことさえ気にも留めていないようだ。

つり上がったコーチの眉が、全てを物語っていた。

「クソっ」
イェソンはつぶやくと、息を切らしてゴールする残りのランナー達を眺め、既に落ち着きを取り戻し息を整えてそこに立つ我らが期待の星を畏怖と羨望の念で見つめた。 そして唖然として座っているドンヘに向き直り、溜息をついた。
「今シーズンこそお前を殴っていいよな?」

0.04秒。

まるまる一秒にも満たない。
そいつが自分の記録を僅か1000分の4秒程も縮めたことに、ドンヘは驚きを隠せなかった。

「気にすることないわよ、ドンヘ。我らがスターはあなたなんだから。」
記録を見たドンヘの表情が途端に歪んだのを見て、コーチが言った。

嘘。

この現実の世界では、一秒なんて何の意味もない。 指をパチンと鳴らしている間にその瞬間は消え去る。
しかしトラックの上では1000分の1秒が全てなのだ。

夕食の時間、この出来事をドンヘは両親と兄のドンワに話した。 控えめな声を装い、出来るだけ何気なく。 
たとえどうであれお前を誇りに思うよ、と彼の父親は微笑んで言う。 彼の母親はドンヘの皿にデザートのおかわりをよそい、ドンワは軽く口笛を吹き、みんなお前に夢中だなとドンヘの肩にパンチを喰わせた。 ドンヘがドンワを突っつき、母親はお行儀良くしなさいと真顔で厳しくたしなめるが、それは暖かくて居心地の良いものだ。

みんな解っちゃいない。

ドンヘに初めてのランニングシューズを与えたのは彼の父親だった。 ドンヘをランニングパークに連れて行くのはもっぱらドンワの役割で、ドンヘがひとりで走れる年齢に達するまでは、ドンワはベンチでノートパソコンに向かうか、近所の子ども達とサッカーをしたりして時間を潰した。

彼の母親は出来る限りドンヘの出場する試合を応援しに行き、彼が得たメダルをリビングの棚に飾った。 家族全員がドンヘの協力者でありサポーターであり、またファンであり、ドンヘはそんな家族を敬愛し、ありがたく思っている。 
しかし彼らは決して1000分の1秒の世界やトラックと一体化する感覚を理解することはないだろう。 解って欲しいとも思わない。

次の朝、日が昇る前にドンヘは目覚めた。
海の底から引きずり出された太陽の光は、ドンヘがそのスニーカーで思うがままに焼き尽くしたトラックの白線をやがて明るく照らすことだろう。

*

「ねえ、」

ドンヘは肩越しに振り返り、一瞥すると眉をひそめた。 アイツ、だ。

ドンヘのふくらはぎは熱く、汗が彼の頬を流れ落ちている。 この昼休みの時間、ドンヘは誰とも関わりたくなかった。
2年生達は大学入試模擬の勉強をしたり、学食のおばさんが食べ物を投げ合うふざけた遊びを止めさせようとしているその隙に、ミートローフのカビが生えた部分を向こうの席に座っている友達に投げつけたり、あるいはスタジアムの野外観覧席の陰で一時間近くイチャイチャしたりして昼休みを過ごしている。 
そんな中、ドンヘはたいてい筋トレに時間を費やし、汗でびしょ濡れになっている。

「ドンヘだよね?きみさ、分離微積分学のクラスにいるよね?」

たくし上げたシャツの裾で額を拭いていたドンヘは驚いた。
「誰かと間違えているんじゃない? 俺は三角法を受けてるよ。 そんな、大学でも役に立たない分離微積分学なんて。」 
ドンヘは足が速いだけでなく、数学も得意だ。

「だよね。」
彼は口をあんぐり開けてそう言うと、シャツの袖をこめかみに押し当てながらドンヘに微笑んだ。
「その、俺を気にくわない奴だって思い込んでるみたいだから、誤解を解きたくて…。」

ドンヘは完全に油断した。
「オレは―、」

ドンヘは異議を唱え始めたが、そいつは口元をひん曲げて信じ難いといった表情で首をかしげている。 
左手でシャツの裾をねじり服を引き寄せると、ドンヘは新しいチームメイトをじっと見つめた。

イ・ヒョクチェについてわかったこと。
ヒョクチェはドンヘが今まで気付かなかった水泳部の選手などではなく、昨年の新学期(9月)からの転校生だった。 
お高くとまった雰囲気の金持ち私立高校からの転校生がいるという噂は、こんな小さな町では誰もが知っていた。 彼の父親は失業したので今は生活保護を受給している(これはドンヘの勝手な想像だ。 この方が何だかしっくりくる)。
ヒョクチェは姿勢が悪い。 彼は2年生だが、上級生に混じって分離微積分学の授業を受けている。
彼はドンヘより1000分の4秒早く走る。

「ね、分かってるよ。 転校生なんか構いたくないって。 特に、いきなりチームの主力メンバーに入る奴なんかね。 でも俺はスター選手になりたいわけじゃなくて、ただ走るのが好きなんだ。」

一戦交える前に、ヒョクチェが平和条約を結びたいと申し出ている事はドンヘにもわかった。 バカじゃなさそうだ。 それは分かる。 ドンヘはただ、ヒョクチェの真後ろに立ち、彼の膝を一蹴りして、全ての体重を一方にかけて寄りかかっている姿勢を止めさせて、今までに見たこともないような奇妙な放物線を描いている内股を何とかして治して真っ直ぐに立たせたかった。

「わかったよ。」
ドンヘは答えた。 一体何に対してわかったのか良く分からなかったが。

「よかった…。 じゃ練習でね!」
ヒョクチェは微笑むと、後ずさりしながらドンヘに小さく手を振った。
直後、ヒョクチェはほどけた靴紐を結び直すのに手間取り、ドンヘは吹き出しそうになるのを何とか堪えた。

「あ、ドンヘ?」

出来るだけ真面目な顔をつくってドンヘは見上げたが、ヒョクチェのニヤニヤ顔がそれを簡単に妨げた。

「ちょっと言っていい? あの子達が逝っちゃう前にソレ、しまった方がいいかもよ。」

ハッとして、ドンヘはこの時間ずっとシャツをまくり上げたままだった事に気が付いた。 真昼の日差しに汗ばんだその腹筋が、わずかに赤く日焼けして美しかった。 ドンヘは掴んでいたシャツを慌てて離すと、失望と安心の入り交じった甲高い溜息が野外観覧席から聞こえた。
ドンヘの頬はその腹と同じように赤く染まった。

イ・ヒョクチェについてわかったことがもう一つ。
ちょっとイヤミな奴。
自分も同類と言えるが、出来るだけ気を付けているし、これはヒョクチェの話だ。

*

「俺はお前の親友だし、本当はお前を殴りたいわけじゃないから言うけどな、まずは落ち着けよコノヤロー。」

ドンヘは前髪をフッと吹き上げたが、イェソンの脇腹を肘でつつく余分な時間は一瞬たりともない。 気が散るだけだ。
「予選レースのご心配をしていただいて申し訳ありませんね。」
ドンヘは足を上げてイェソンの攻撃から身を守った。

一呼吸した後、イェソンはドンへに遅れをとるまいと全速力で走り、1000分の1秒について2つ3つ文句を言うと、ドンへの腕にパンチした。
「お前が予選を心配するなんてありえないだろ? あの進化に取り残されたようなカオの新入りのせいか?」

ドンへはクックッと笑い、イェソンに息をつかせてやるためにその走りを少し緩めた。

日曜日の遅い午後。
そういえばヒョクチェと初めて会ったのは今週の火曜日だった。
ドンへは笑うのをやめた。

「ヒョクチェ…」
ドンヘはつぶやいた。

その名は胃酸のようにムカつくわけではないが、頭から離れない。 チクチクするわけではないが、妙にしゃくに障る。 流血には至らないが、まるで絶え間なく繰り出されるジャブのようだ。

「でもさ、頭が悪いわけでもないんだよな。 例のゲーム中毒のあの1年野郎に次いで、分離微積分学の授業を受けている唯一の2年生だし…。」

イェソンはつまらなそうに肩をすくめると、両手を空へかざした。 今、こうして走れることの幸福を神に感謝しているのだとドンヘには分かる。
「そんなもん、大学に入ったらクソの役にも立たないだろうけどな。」

ドンヘは微笑んだ。
イェソンの痛快な物言いと自分と良く似た思考回路。 これだからイェソンとは幼稚園の頃からの親友なのだ。
そろそろひと休みしてもいいだろう。
ようやくゴール地点に着くと、イェソンは感謝のあまり地面にキスしそうだった。

「あのさあ」
ストレッチの後、ドンヘは右足を地面に置き、肩を回して左足のわずかな日焼けを観察し、イェソンの肩に腕をまわした。
「お前にマックフルーリーをおごってあげようかなと思ってさ。」

「ダブルファッジとM&Mチョコ付きで?」

「調子に乗んな。」

*

普通の人がどう思うのかドンヘには分からない。
陸上競技の試合はいつも満員だ。 実際、なかには一番奥の観覧席の床にしか座るスペースが無い時などは、ジャケットをクッション代わりに敷いて堅いコンクリートに座るしかない。 退屈だが家に帰りたいほど退屈ってわけでもない生徒達が主な観客だ。 車に乗り合わせて来た選手の親達の手には、常にビデオカメラが装備してある。 申し分のないビジネススーツに身を包んだ親達が、仕事を抜け出してきた罪の意識で携帯にまくし立てている。 3位を取ってもいつも誉めてくれるけれど、実際に1位を取ったのに、それに気が付かず子どもをがっかりさせている罪深い親。 小さい兄弟姉妹たちは競技者のそばを走り、数人の面倒見の良い彼女や彼氏や親友はごちゃ混ぜで、ドンヘにはどう言い表せばいいのか分からない。
観衆の様子は、野球もバスケも皆同じようなものだ。ただひとつの相違点を除けば。

熱狂の欠如。

彼らはハラハラドキドキして爪を噛みながら座っているわけじゃない。 シートの端を強く握り、研ぎ澄まされたタカの様な目で、ストップウオッチのカチカチいう音とゴールまでの距離を一瞬も見逃さないように注目しているわけじゃない。
そういったもの全てを意識していないのだ。

人類は走るために生まれたのは紛れもない真実だ。
それは人間のもつ脚の形からも明らかだ。 それは真っ直ぐに伸びる道において、まるで飛ぶことすら可能に思えるほど空を近くに感じる飛翔感やそれに伴う空への帰属感に現れており、ドンヘの想いや1000分の1秒や勝利などとは何の関わりも無い。
ドンヘは、ここにいる人々が本来在るべき自分の原点の姿を目の当たりにすることが出来るとは思わない。 息も切らさず、何百マイルもの距離を素早く駆け抜けることが唯一の生き抜く方法であったその時代を。

人間の足をひ弱にしたのは車のせいだとドンヘは思う。
(これはドンヘが運転免許取得の試験に2度も落ちたこととは関係無い。)

ドンヘにとって、最初の数レースはゆっくり過ぎていった。
イェソンが400mリレーでヘマもせずに走りきった時には雄叫びをあげたし、相手高校のチームのアンカーが間違ってバトンを観客席に飛ばしてしまい、それが自分達のコーチの額に当たった時には必死に笑いを堪えた。
ドンヘは今まで高跳びや棒高跳びなどのフィールド競技に関心を向けたことは無かったが、それでも相手校の友人のユノには声援を送るし、水をぶっかけ合ったりたりもする。 これは街を隔てた川向こうのオールボーイズアカデミーと自分たちの、親愛を表すいわば儀式のようなもので、ただただ楽しいひとときなのだ。

しかし、楽しいだけのように見えるこの交流試合も、実のところは今シーズン、自分が何に打ち込まなければならないのかをコーチにいやがおうにも知られてしまう、自らの弱点をあぶり出されてしまう皮肉な機会となっている。 影に隠れるこんな意図を考えると、ドンヘはいまいましく思う。

400mハードルの後ドンヘはトイレに行ったが、彼が戻ってきた時には100mレースは終わっていた。
丁度ヒョクチェがゴールして、額の汗をシャツの端で拭いている時だった。 ヒョクチェは満足げに微笑み、ドンヘと目があった時にもニッコリと笑った。

「出番よ、ドンヘ」 コーチが言った。
ドンヘが動きそうも無いように見えたので、コーチはクリップボードでドンヘをつつき、トラックへと押しやった。

ドンヘは他のランナーと位置についた。 
左足の膝がわずかに胸に触れる。 頭を下げる。 その瞬間、ドンヘはまるで走ることを許される名誉のためなら、自分たちを生け贄に捧げても構わないと祭壇に向かってひざまずいている信者のようだと思った。
目を閉じて、ドンヘはベンチで手を合わせて祈っているイェソンの姿を閉め出そうとした。 今この瞬間、一瞬でも時を止めて貰えたら、観客席に戻ってイェソンをぶっ殺せるのに。 …自分がそんな事を考えているなんて、コーチは夢にも思わないだろう。

ホイッスルが鳴った。

その後、優勝メダルを首に掛けたドンヘはデータを書き留めたクリップボードをオフィスに運ぶようコーチに頼まれた。

自分のタイムは200mで19.80。
ヒョクチェは100mで9.77。

ドンヘはその記録を暫く見つめていた。 もし同じ距離を走ったら、どちらが勝つだろうか…?
しかし彼の頭の中は角度やサイン、コサインなどの記号で一杯になり、どうしても答えを導き出すことが出来なかった。 ドンヘは初めて、単純な数学ではなく三角法の授業を取っていて正解だったと思い知った。 何故ならこれで自分は気を紛らわすことが出来て、惨めな事実と向き合わないですむのだから。

*

「な、ミートローフってもっと肉っぽい色してなかったっけ? これ、紫色だぜ?」

「だから俺はここで食べたくないんだ。」
ドンへは鼻先でせせら笑うと、ありがたいことにごく自然な色をしているホウレンソウパイを一口かじった。

イェソンは自分のトレーを押しのけると、ドンヘのフレンチフライをひとつ失敬した。
「まったく別世界の食べ物だよな…。 そうだ、お前が食べ物って呼んでるあの毒をくれよ?」

ドンヘは肩をすくめるとバッグの中からプロテインバー掴み取り、イェソンに投げつけた。 それは彼の目に当たり、イェソンは仕返しにミートローフの切れ端をドンヘに投げつけた。 ドンヘはひょいとかわし、ミートローフの切れ端は壁にピシャっと当たり、そのままズリズリと落ちていった。

「で、ありそうもない事も起こり得るんだな。」
ヒョクチェは血管が浮き出るほどしっかりとランチトレイを掴んでそこに立っていた。

こいつ指が長いんだな。 ドンヘは考える。 彼はリレーに向いているかも知れない。

「この一年、きみを一度もここで見たことがないよ。」
そうヒョクチェは話を続けるとドンヘの正面の空いている席を指差した。
「座ってもいい?」

ドンヘもイェソンも思いがけないことだった。

どうしてこいつは俺が学食をペストのように避けている事に気づいたのか、ということには触れずにドンヘは肩をすくめた。 かといって、どうしてなのかを考えなかったわけではなく、実のところ、ドンヘはこのランチタイムの間中、ずっとヒョクチェの発言について考えていた。 結局その意味するところや、何故こんな事を自分は考えているのかは解らなかったが。

ヒョクチェは微笑んで自分のランチトレイを置くと、何となく所どころ紫色をしているミートローフにかぶりつき、口を開けたまま平気で喋り始めた。 イェソンは胸くそ悪そうな顔をして様子を見ていたが、ヒョクチェが食中毒をおこしてないとわかると、このミートローフは食べても何とか大丈夫そうだと判断した。

ヒョクチェのミートローフは3分も経たないうちに胃袋に消えた。 
彼の口から溢れ出る言葉や、その言葉を説明しながら激しく振り回される両手を見るうち、こいつは何でも目にも止まらぬ速さだなとドンヘは思い始めた。 お気に入りのバンドの話から始まり、子どもの頃からティーンエイジ・ミュータント・ニンジャ・タートルズが大嫌いだったなどと何気なく言っては知らない間にイェソンを傷つけている間にも、ヒョクチェのひとみはパァっと明るく輝いたかと思うと瞬時に燃え尽きたように影を落とすのだった。

「どうもね。」
ランチタイムが終わり始業のベルがなり、生徒たちが各教室へと殺到し始めるとヒョクチェはそう言った。

ドンヘは空のトレーを返却棚へ置くとヒョクチェと並んで学食を出た。
ふたりの数歩後ろでイェソンはまだプンプン怒っている。

「何が?」

ヒョクチェは肩をすくめるとポケットに両手を滑り込ませ、見間違いかも知れないが、ほんのり頬を赤くした。 
ヒョクチェがドンヘの目を全然見ないので、ドンヘはニヤニヤせずにはいられなかった。

「この昼休み、お仲間に入れてくれたからだよ。 転校生っていうのは煙たがられるし、俺は5000人も知り合いがいるミスターフェイスブックじゃないしね。」

ドンヘは不思議な気持ちになった。 
彼には好かれないという感覚が解らなかった。 確かに彼はフットボールの花形クォーターバックではないが、イ・ドンヘの名は学内ではよく知られており、有名人である。 毎週金曜日の夜には必ず何処かのパーティに誘われるし、思い切った告白も気高く断るし、十分堪能したヌード写真の類いは直ぐに廃棄する。 彼のファン達は自分の写真をなんとか彼に見て欲しくて苦労して付け届けているのだから、せめて一度でも目を通すのが礼儀というものだろう。

ヒョクチェはまだみんなから認められていないようだが、ドンヘの態度いかんによっては、一層状況を悪くもしかねない。

「どうってことないよ。」
ドンヘはヒョクチェを追い払うように手を振り、ヒョクチェのひとみが再びきらめくのを見て微笑んでいる自分に気が付いた。

「クソっあいつ…最低なヤツだ。」
ヒョクチェが廊下を曲がって授業に向かうと、イェソンが言った。

いかにあいつが最低野郎なのかイェソンはまくし立てるが、ドンヘは言わせておいた。
ヒョクチェはそんなに悪い奴じゃない、とドンヘは考えていた。

*

イ・ヒョクチェ。 悪い奴じゃない。

最悪だ。

「なんで彼が1,500mなんです!」

「ドンヘ…」

コーチのいさめる声で、ドンヘは深呼吸をすると机をひっかく手の力を抜いた。
「フェアじゃありませんコーチ。 ヘンリーは去年からずっと、誰よりもハードに練習してきたんです。 彼が1,500mに出るべきだと思います。」

コーチは溜息をついた。 もう何を言おうと決定は覆されないとドンヘには分かっていた。
「ドンヘ、これは誰が出るべきとかの話じゃないの。 ヘンリーは既に400mハードルに決定しているし、あとはリレーに出て貰うつもりよ。 ヒョクチェは速いし、これまでも相当努力してきたわ。 …実はあなたに彼をトレーニングして欲しいの。 あなたは優秀なランナーだから。」

ドンヘは一体何の冗談だろうと一笑に付した。

コーチの居室から出ると、ドンヘはドアに自分の頭を打ち付けた。 もしかしたら痛みで気絶して、この世から自分を切り離せるかも知れない。 そして1000分の1秒とかイ・ヒョクチェとか忘れられるかも知れない…。

スニーカーが体育館の床で軋む音を聞くまで、ドンヘはベンチに座っている人物に気が付かなかった。 そしてハッと息を飲むと、押し寄せる怒りが平手打ちのようにドンヘを襲った。

「一体俺の何が気にくわないんだ?」
ヒョクチェは問い詰めた。 彼の目はドンヘの目を焼き焦がすかのように燃えていたが、何か他の感情も含まれていた。

傷心。

ドンヘは胃が痛くなった。
「あのさ、これはきみの事じゃなくって、ヘンリーのことで、…」

「いいや、俺のことだ。」
ヒョクチェはドンヘの言葉を遮ると二人の間の距離を押しのけ、ドンヘの顔すれすれの所まで迫った。

ドンヘは半インチ(約1.27cm)程ヒョクチェより背が高いだけで、こんな風にしかめ面をする自分がいかにも大人気ないなと思っていた。

「きみはヘンリーの事なんかどうでもいいんだ。 昨日の練習で出した俺のタイムがきみより速かったから気にくわないだけだ。 結局そこだろ?」
そう詰め寄りながらも、疑念と落胆の色がヒョクチェの声とひとみに滲んでいた。

ドンヘはヒョクチェを押し戻し、お互いの距離をいくらか元に戻した。 実際それはヒョクチェを実物よりも視覚的に小さく見せて、ドンヘの気分を幾らかマシにした。 しかしドンヘの胃はますます痛くなってきた。 まるでタチの悪いお仕置きだ。
「学校のヒーローになるつもりはないだって? ただ走りたいだけってか? ウソつけよ。」

ショックでヒョクチェの目は大きく見開らかれた。 
気付くと、ドンヘは壁に押しつけられていた。 が、ヒョクチェはドンヘに指一本触れてはいなかった。

胸の前で腕を組み、ヒョクチェは至近距離でドンヘを見据えた。 
ふたりの背丈は1インチの差も無いはずだが、ヒョクチェはドンヘより大きく、より誇り高く、まるで見せかけだけの正義など持ち合わせないダビデがゴライアスに豹変するかのようだった。
「きみのやり方が今までどうだったかは知らないけど、一番になるためには一番を抜かさなきゃならないと俺は教えられた。」

俺は一番だ。
ヒョクチェはそう言っている。
彼の言っていることは正しい。 彼はより優れたランナーで、より優れた人格を持つ、より優れたチームメイトだ。

ところが突然ヒョクチェの態度は気が抜けたようになった。 彼の肩は前かがみにうなだれ、ひどく疲れているようだった。
「注目されたいわけじゃないって俺言ったよね? 気が付いてないのかも知れないけれど、誰も俺に注目なんてしてないよ。」

「ごめん…。」
ドンヘがそう言うと、ヒョクチェのみならずドンヘ自身も驚いた。
もはやドンヘもヒョクチェと同じくらいの疲労感を感じていた。

「個人的にきみを攻撃するつもりはなかったんだ。 多分、他の誰でも同じ事をしたと思う…。」
ヒョクチェの気持ちが幾らかでもマシになるようドンヘはそう付け加えた。 何を差し置いても、ヒョクチェがたとえ脅威であろうと、オーバーヒートした時のヒョクチェのまなざしが虚ろに燃え尽きてしまうのを見るのは何だか辛かった。

突然、怒りの感情はヒョクチェの体から溶け出し、自己防衛本能が彼の声や肩に幾重にも現れた。
そしてドンヘは不思議に思った。
ヒョクチェが走る時に肘を体に押し込むのは防御本能なのか。

「走ることにこだわりがあるんだ。 もちろんこれはあくまで自分の考えだけど。」

ドンヘの鼓動は1,2秒すっ飛んだ。
その言葉は自分の言葉でもあった。 彼は今まで一度も声に出して言ったことはなかったが、それはまさしく自分が常日頃感じていたことと同じだった。
走ること、トラック、レース。 これら全てがドンヘという人間を作り上げている。

ドンヘは瞬きをした。
一瞬、彼はヒョクチェの中に自分自身を見た。

数分間、気まずい沈黙が漂っていた。
ドンヘがヒョクチェの脚の形から放物線を想像している間、ヒョクチェは自分の靴を見つめていた。

「…お前のフォーメーションは最悪だよ。」
ドンヘは沈黙に耐えきれずそう言ったが、それは彼が初めてヒョクチェを見た時から思っていたことだった。

気を悪くもせず、ヒョクチェはドンヘに挑んだ。
「なら、どうにかしてよ?」

「はあ?」

ドンヘは間抜けのように答え、ヒョクチェはまるでその返答を予想していたかのようにニヤリと笑った。
「コーチが言ったよね。一緒にトレーニングして欲しいって。丁度良い機会だよ。 実際、俺も助かるんだ。」

「俺に何の得がある?」

ヒョクチェはうつむいたが、何か思いついたらしく、歯を剥き出してニッコリした。
「数学を教えるよ? それに俺のトレーニングを手伝えばきみ自身のトレーニングにもなるし…どうかな?」

考える必要はなかった。 ドンヘは明確な理由もなくヒョクチェを嫌うことにうんざりしていた。
「交渉成立だな。」



小説:僕たちを導く走路, 長編小説

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