僕たちを導く走路 part 2 (2)

Mar 04, 2013 00:04

お前が欲しくない奴なんて、いるわけないだろ、ドンヘ?

原作:  Tracks That Lead Us (part 2) by drawingintheair




     僕たちを導く走路 part 2 (2)

学校のウエイトトレーニングルームを使うなら、朝7時が最適な時間だろう。

7時5分。

ヒョクチェはこの仕打ちに対して、悶え苦しむドンヘの死にざまを思い描かずにはいられなかった。

「あと10回。」

ヒョクチェの腕はベンチプレスの上でグラグラと震えている。 何としてもドンヘに目に物見せてやりたくて仕方がないといった様子だ。
そんなヒョクチェをドンヘはただ笑いながら見おろしていた。 バーベルを持ち上げるのがこのトレーニングの目的なのではない事をヒョクチェに解らせなければならない。
―ガリガリに痩せたコイツの脚が早いのは分かっている。 だけど何故そう俺の腕にこだわる?―

陸上チームに入るのは今回が初めてだとヒョクチェは言う。 確かに彼がかつて通っていた高校には陸上チームは無い。
ヒョクチェはある日突然走り始め、それ以来彼は走るのを止められなかったと言う。

絶対に無茶しないと確信出来た時には、ドンヘはヒョクチェにプルダウン・マシーンを推奨するつもりだ。 それにはボディを強化させなければならない。 そうすれば抵抗なくスピードに対処できる。 ヒョクチェはまだその事を理解していないようだが、彼の文句はその後、大幅に減った。

数学の勉強会はそれとは若干違った感じで行われた。
ヒョクチェはタンジェントやアングルの記号で優しく語り、三角法とかコサインを拷問道具として使わなかった。 また、ドンヘが理解しやすいように図を描いて説明した。 傾きは直線上の2点間の「渡り」(run) に対する「上がり」(rise) の比率として定義される。 もしドンヘが坂を駆け上がっているとしたらスタート地点が a、頂上地点が b、そしてその坂の傾斜が距離ということだ。

「ワオ。なるほどなあ。」

ドンヘは解説を見ながら微笑んだ。 もはやサイン・コサイン・斜辺の抽象概念において三角法の端から落ちこぼれることもなさそうだ。 ドンヘはヒョクチェに向かって顔をしかめた。
「なんかさ、頭も良いなんてズルくないか?」

「良くなんかないよ。」
ヒョクチェはそう言うと、食べ終わったばかりのグラノラバーの包み紙をクシャッとまるめ、近くのゴミ箱に放り投げた。 あと一歩、届かなかった。

溜息をつき、ヒョクチェは鉛筆でドンヘのコンパスをトントンと叩いた。
「数学は好きだけど他の科目は苦手なんだ。これで数学も出来なかったら惨めなもんさ。」

ドンヘは水を飲み干すとペットボトルのフタを閉め、同じように放り投げた。 それはシュッと音を立ててゴミ箱に吸い込まれた。 ドンヘは椅子を回し、ふくれ面をしているヒョクチェに向き直った。
「お前ってよくそうなるよな。」

「どうなるって?」

「いじける。」

ヒョクチェは口をあんぐり開けた。 その頬は青ざめていて、もしかしたら言わない方が良かったかとドンへは少し後悔した。

「…クセなんだ、きっと。」
ようやくヒョクチェは口を開いた。 そして自分の椅子をクルリと回すと、両肩を体の内側へ曲げ、自分の椅子の肘掛けをドンヘの肘掛けにぶつけてきた。 防衛本能。 もしかしたらヒョクチェは己の不安定さと直面することをずっと避けてきたのかも知れない。 少なくともドンヘにはそう思えた。

ドンヘが自分の椅子をちょっと回すと、左の膝がヒョクチェの右膝に触れた。
もしかしたら、こんな他愛もない動作でヒョクチェが笑顔になるかも知れない。

「きみも、よくそうするね?」

「どう?」

「ハッキリ言う。」

ドンヘはニヤリとした。 結局、ヒョクチェは自分の歯に衣着せぬ物言いを嫌がっていない。
「しょうがないんだ。」

ヒョクチェの椅子の車輪がクルクル回る。
ふたりの膝が触れあう。 今のヒョクチェは心から笑っている。 ドンヘはそう確信した。

「くせ、だよな。」

*

進歩とは、急な坂道を登るようなものだ。 受け入れることとは、飲みにくい錠剤を飲み込むようなもの。
しかし一度でも経験すれば、次からは容易く成し遂げられ、最後には安堵の一息をつくことが出来る。

ヒョクチェと共に走れば走るほど、彼に対する理解も深まってきた。
とにかく分かりやすい男だ。 普段のドンヘなら見向きもせず、相手にもしない少年だろう。 だがもしも、たった一度でもヒョクチェをよく観察すれば、普段は見えにくい本来の彼を知ることができる。 ヒョクチェがごくたまに、変えることも捨て去ることも出来ない何かに向かって爪を立てているような時は、ドンヘは用事を後に回す。 橋は既に架かっている。 後は文字通り、渡ればいいだけなのだから。

「痛ってー!おい! きみが踏んでった脚には俺がくっついてんだぞ!」

ヒョクチェの文句は無視してドンヘはその隣にドスンと座ると、首に回しかけるついでにタオルでヒョクチェの顔をピシャッと叩いた。 ロッカールームは混雑していたが、それでも自分の濡れた膝をヒョクチェに押しつけるほどは混み合っていない。 ドンヘは自分がそっけなく振る舞う時の、目尻にシワを寄せ、眉毛を大きくつり上げるヒョクチェの顔が気に入ってる。

「シャキッとしろ、ヒョクチェ。 明日の朝7時きっかりにここへ来いよ?」

「ええっ、なんで?どうして? 今週末はトレーニングを休んでいいってコーチも言ってたじゃない?」
ヒョクチェはそう指摘すると、ドンヘの胸を強くつついた。

口を尖らせ、ドンヘはつつかれた胸をさすった。
「お前は別。 俺たちはまだまだやることがあるんだ。」

ドンヘは強調するように人差し指を立てて左右に振った。 ドンヘの笑顔につられてヒョクチェも笑いだし、ロッカールームの他愛もないおしゃべりや喧噪に紛れてふたりはクスクスと笑い合った。

「ん~~オホン。」

イェソンはふたりの笑い声をかき消すには充分なほど感じの悪い大声で咳払いをすると、ロッカーに寄り掛かり、顔をしかめてふたりを見た。
「お前ら、仲が良がいいんだか何だか知らないけど、ベタベタし過ぎなんじゃないの?いい加減にしてくれませんかね。」

「あらら。誰かさんは構って欲しくてシットしてるのかな?」

「はあ…まったく。 いいよ、お前はヒョクチェにやるよ。」

「誰も欲しいなんて言ってないけど?」

イェソンは爆笑したが、ドンヘはヒョクチェに向き直ると、歯を剥き出した笑顔に用心深く目を向けた。 ヒョクチェ自身がこの状況を招いたのだ。 ドンヘはヒョクチェを存分にからかうことにした。

「言ったな?」 
ドンヘはヒョクチェの上着のボタンを押しながら鋭い笑顔で聞いた。 他愛もないおふざけだ。 大した事じゃない。
それに、誰だって俺が欲しいに決まってるんだ。 違うか?

ドンヘの顔が近づいたせいか、あるいはその言葉に脅されて前言撤回するかのように、ヒョクチェのくちびるは一瞬ひん曲がった。 ロッカールームの黒ずんだ壁が照明を薄暗くぼかし、ヒョクチェの顔の周りに迫っている。
ようやく戻ってきた笑顔はどこかぎこちなく、その両肩は背筋とともに硬直し、瞬間、ヒョクチェは目を逸らした。 この情景は初めてヒョクチェを見た日をドンヘに思い起こさせた。 肘を胸にぴったり付けて、気ままに無頓着に走る姿。 そして自己防衛という言葉も。

しかし即座に舌の動きをその脚と同じくらい素早く回復させたヒョクチェは、イェソンとからかうように微笑み合った。
「お前が欲しくない奴なんて、いるわけないだろ、ドンヘ?」

今やイェソンは雄叫びをあげている。 さほど面白くもないが、まあ良いかと言わんばかりにドンヘはむくれた。

その後、シャワーを止められ個室から引っ張り出された一年生がタオル1枚でダンスを踊らされるという笑いを誘う悪ふざけにかき消され、ドンヘが普段と違って妙に無口だったことに誰も気付かなかった。

お前が欲しくない奴なんて、いるわけないだろ?

ヒョクチェは誰よりも大きな声で笑っていた。

*

金曜日。 彼らの初めての公式陸上競技会だ。
その朝、ドンヘは目覚めると分速8マイル、6分29秒で走った。

俺たちは勝つ。

ドンヘはそう直感した。 最終予選試合直前のミーティングでコーチの話を聞きながら、ドンヘはヒョクチェにそう話した。 ドンヘの直感はいつだって信用できるというようにイェソンはうなずいている。 ヒョクチェは気でもふれたかと言わんばかりの呆れ顔でふたりを見て微笑んだ。

競技会は自分たちの高校の競技場(ホーム)で行われ、野外観覧席はいつものように彼らのクラスメート達で満員だった。
ドンヘにとっては関係の無いことだ。 彼らのために勝利を勝ち取るのではないのだから。

しょっぱなのリレーの直前、ヒョクチェは酷く落ち着かなかった。
足の裏の親指の付け根に体重をかけてバランスを取っていたが、半分入った水のペットボトルを踏んづけ、その水がキレやすいという噂の上級生をびしょ濡れにした。 ドンヘはヒョクチェが半殺しにされないよう、トイレ横にある自販機そばのベンチから反対側の観覧席にヒョクチェを引っ張っていった。

「ヘイ、落ち着けよ?」
ドンヘは無意識にニヤッと笑うと、出来るだけ平静を込めた声で言った。

ドンヘの最初のビッグレースは彼が7年生の時で、ヒョクチェの様子はまるでその頃の彼そのものだった。
「大丈夫、心配しなくてもきっとみんな上手くいく。」 あの時、そんな風にドンヘに助言してくれる者は誰もいなかった。 だから今回、ドンヘはその誰かになりたかった。

「忘れるな、」
ドンヘはヒョクチェに後ろを向かせ、背中と腹に自分の手を添えた。
「アゴを上げろ。前傾になるなよ。そしてゴールは常にお前のずっと先にあるんだ。」

ドンヘのアドバイスがヒョクチェをリラックスさせたようだった。 それまでの緊張が、ヒョクチェの物言いたげな仕草の中で解れたようにドンヘは感じた。
「ありがと。」
ヒョクチェは笑顔で振り向いた。

「レースのことは考えるな。ただ、走れ。」

「うん。きみもだよ?」
ヒョクチェは柔らかい笑顔で言い返し、ドンヘも今回に限っては他人のアドバイスを受け入れることにした。

1500mのレースで、ヒョクチェは初優勝を果たした。
ドンヘはマイルレースでスタートラインについた。 そして笛が鳴り、彼はただ無心に走った。

首にまとわりつくメダルの感触は良いものだ。 ましてやコーチのボードに書かれた6分28秒の記録を見るのは殊更だった。

*

「乗せてくれてサンキューな。」

「いいよ。 どうせ途中だし。」

「そうか?お前ん家、学校の反対側じゃなかった?」

「うんまあね。 この町は小さいから、何処だって途中なんだよ。」

ヒョクチェの車はイェソンのより小ぶりだ。 街灯の貧弱な街灯が車の窓ガラスに差し込み、ヒョクチェの頬をオレンジ色に染めている。 ドンヘは微笑んだ。 やっぱりヒョクチェはちょっとヘンなヤツだ。 でも嫌な種類のものではない。 こいつには誤魔化しなどない。 このような素顔のままの人間を、ドンヘはそう多くは知らない。

「きみ、今日凄かったよ。」
運転しながらヒョクチェは素早く言った。 あまりに突然で、ヒョクチェが100%照れているとドンヘには分かった。
「ただ、最後の方は体重がつま先より少し前に傾いていたけどね。」

「おい、姿勢を直してやったのは誰だよ?」

「人生こんなもんだよ。」

ドンヘを家に送った頃には、ヒョクチェの車はほとんどガス欠になっていた。 まるで死にそうなネコのような音を出すヒョクチェの車に、寝られやしないとドンヘの兄は大声でわめいた。
ドンヘはただ微笑んで、暖かなオレンジ色の街灯の中で今日一日の満悦感に浸っていた。

*

「きみの言うとおりだ。 学食なんかで昼休みを無駄に過ごすよりずっといいね。」

「失礼ながら同意しかねるな。」

「あれ、イェソン、お前まだ居たの?」

「ハ、お前はひとりでヤッてろ。」

「そうしたいところだけど無理。自分の指を自分に突っ込むなんて性に合わないんでね。」

「…」

「それとも代わりにしてくれんの?」

「どうしてもして欲しいって言うならな。」

「まさか。 お前の短い指じゃどうせ奥まで届かないもんね。 それとも逆に俺にやって欲しくて言ってんのかな?」

彼らのこういった下らないやり取りにとっくに順応していたヒョクチェは、もはや興味すら示さなかった。 そして 最後の一周をゆったりと大股に走り終えると、地面に腰を下ろしてストレッチに入った。 ヒョクチェに続いて走り終えたふたりだったが、ヒョクチェがクールダウンしてバナナでエネルギー補給している頃には、イェソンはドンヘにヘッドロックをかけるし、ドンヘはイェソンのパンツを引きずり下ろそうと格闘している。

イェソンがドンヘの頭を拳骨でグリグリするのをやめると、ドンヘはイェソンの脇腹からヒョクチェを見上げた。
「なあ、気の利いたセックスジョークでも言ってくれよ?」

ヒョクチェはすぐさま、中指を立てた。

笑いながらドンヘはヒョクチェの隣に寝転んだ。
初秋とはいえ、真昼の太陽はきびしく彼らを照りつけている。 ヒョクチェはドンヘのために自分の身体で日陰を作ってやったが、その手の中に太陽の光を掴もうと、ドンヘはどのみち両腕を伸ばすのだ。

「何してんの?」
ヒョクチェはドンヘを不思議そうに見下ろしていたが、太陽の欠片を掴んだドンヘの拳をその目で捉えると、納得したように微笑んだ。

ドンヘは頭の位置をずらすと、ヒョクチェの太腿に頭を乗せた。
ショートパンツで半分覆われたその太腿は、柔らかい肌と鍛えられた筋肉の程良いバランスでドンヘの恰好の枕となった。
「ちょっと昼寝。」

「オーそうそうヒョクチェ。」
彼らのそばに座っていたイェソンが、ヒョクチェから無言でバナナを手渡されて言った。

正直な話、その時ドンヘはイェソンの存在を完全に忘れていた。

「警告しておくぞ。 こいつはかなりの甘えん坊だ。 俺がお前なら、こいつをそんなにつけ上がらせないぜ?」

頬を手の平に乗せ、ヒョクチェが体をずらすと、その腹がドンヘの頭を軽く圧迫した。
「別に構わないよ。」

先程、彼らはトラックを6周した。 しかし今の方がドンヘの鼓動は何故か落ち着かず、むしろ速くなっている。

イェソンは目を丸くした。 そして歌うように続けた。
「いいか、俺は警告したからな♪」

こんなにも気持ち良くなかったら、ドンヘはイェソンを蹴り倒すところだった。

「よし起きて。俺、10分後にテストなんだ。」

「あと少しだけ…?」

「早く。」

ヒョクチェが授業に向かったので、ドンヘも仕方なく起き上がった。 枕がなくなった今、ドンヘは昼寝をする意味を失い、必然的に彼らも授業に向かうことになった。 ドンヘは道すがらイェソンに攻撃を喰らわせると急いで逃げた。

「クソッ」
校舎に向かって走っている途中で、半開きになっていたドンヘのバックパックから中身が半分ほどもこぼれ落ちた。
イェソンは拾うのを手伝ったが、ふと1枚の紙切れに目が留まった。

「数学の勉強会も上手くいっているようだな?」

「んーまあね。」
ドンヘはうなずくと、バッグのジッパーを閉めた。

「待てよ…。」
イェソンは顔をしかめた。
「お前とヒョクチェの勉強会って1ヶ月前から始まったんじゃなかったっけ?」

「ああ、だから?」
ドンヘは答えたが、イェソンにテストの行われた日付を示唆されても、彼の言わんとしている事が何なのか暫くピンと来なかった。 しかしその目は次第に大きく見開かれ、ドンヘはイェソンの手からテストをひったくった。

「お。」

「お、って何だよ?!」

「お、お~~~!」

ドンヘは舌打ちし、イェソンの襟元を掴んた。
「イェソン! いいか? 誓って言うけど…」

イェソンはただ冷やかすように笑った。
「キム・ヒョヨンの時と同じだな? 8年生の時、お前は彼女にサルサを教えて欲しいって頼んだんだ。 ラテン・アメリカン・ヒストリーの授業でレポートを書かなきゃならないとか何とか言ってな。でもお前は教えて貰わなくたって、彼女なんかよりずっと上手く踊れたんだ。」

イェソンは眉毛を上げて微笑んだ。
「アイツが好きなんだな?」

慌てて、ドンヘはイェソンの腕を放すと後ずさった。 顔が熱くてたまらない。
「違う。そんなんじゃない。」

「ドンヘ、俺に隠さなくてもいいんだぜ?」
イェソンは言い聞かせるとドンヘの肩を掴んだ。

ドンヘはその手を振り落とした。
「そんなんじゃない。 そうじゃなくて、タダでアイツを手助けするわけにいかなかったんだよ。 いいか?それだけだ。」
ドンヘは歩き始める前にテスト用紙をグシャグシャと丸めてポケットに突っ込んだ。

「待てよ!おいドンヘ!」
懸念と心配の入り混じった声でイェソンが背後から呼びかけたが、ドンヘは振り向かなかった。

イェソンが、ぼやけたスタート地点a を示してしまった。 
しかしドンヘにはゴール地点b が一体何処にあるのか見当も付かないし、知りたくもなかった。

*

走ることが癒しにならないなんて、生まれて初めての事だった。
まるでリマインダーのように、走ることでヒョクチェの事を考えてしまう。 しかし今、ドンヘは彼のことを考えたくなかった。

その日の午後いっぱい、ドンヘはしぼんだようにベッドの上で天井を見つめていた。 そこには何年も前に彼の父親が描いてくれた宇宙の絵がある。 今ではそれを覆うようにポスターが貼ってある。 ウサイン・ボルトの踵やホンダ・ケイスケのパワーストライク、あるいはクリスティー・ヤマグチの足元に成層圏が勢いよくつながっていて、そこから繰り出されたマリア・シャラポワのバックハンドの合間合間に星や雲が覗いている。

いつか、いつの日か子ども達が自分のポスターを天井に貼り、自分が彼らの未来のビッグレースのインスピレーションになる日が来るだろうか。 もしかしたらヒョクチェがそうなるかも知れない。

ドンヘは嘲笑った。
ヒョクチェ。 彼はまるで宇宙の中心か何かのように、ドンヘの意思などお構いなしに強引に彼を引き寄せる。

イェソンの言葉は未だ鮮明に頭の中を駆け巡っていた。 あの時ドンヘは否定してしまったが、問題はそこではない。 自分が同性にも惹かれる性質であることは、ドンヘ自身にも分かっていたし ― 同性にも、とドンヘは強調する。 実際、今でも彼は豊満な胸を夢で見て、シーツを濡らして目覚める事があるのだ ―、イェソンもそんなドンヘの性質を昔から知っている。 イェソンはそんな事など気にもしていない。

問題は、その男がヒョクチェだということだ。

ヒョクチェであるはずがない。

ヒョクチェなのだ。

ドンヘは認めたくなかった。
しかし客観的に考えると最も完璧に筋が通っているように思われた。

それはヒョクチェの走りに在り、その微笑みに在った。 目を閉じれば、ドンヘの崇めてきた全てのインスピレーションが、彼の骨の髄まで凍らせるような激しい炎を目にたたえてドンヘを見おろしている。 ドンヘは静かに降参した。 闇の真っただ中で、ヒョクチェのひとみがドンヘの瞼の下で明るく光っている。

*

イェソンは呼び出し音3回目で電話に出た。

「俺…あいつが好きなのかな。」
溜め息交じりにドンヘは携帯につぶやいた。 しかしイェソンに対しては正直になりたいと思い直した。
「いや…もう誤魔化さない。俺ヒョクチェが好きだ。」

「思ったより早かったな。 多分、8時頃に電話が来るかと思ってたけど、今7時20分だ。 俺のグリーを邪魔しやがって。」

「イェソン…俺…どうしたらいいんだろう?」
静かにドンヘは尋ねた。 彼の心臓は昼休み以降、ずっとその胸を打ち付けている。

イェソンは考え込んだ。
「うーん…お前、男役がいいの?それとも女役?」

ドンヘは携帯を切った。

(最終話)

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小説:僕たちを導く走路, 長編小説

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