最後のシュキラの夜の、やさしいおはなし。
原作:
what kisses are meant to be by drawingintheair
Pairing:: ドンヘ/ヒョクチェ、イトゥク
Rating: pg
3046 words
翻訳: ミイナかどきち
what kisses are meant to be
8月の暖かい夜。KBS Cool FMからファーストキスが聞こえた。
夏も終わりに近づいた真夜中。
子ども達はベッドに潜り込みながら、あるいは屋根の上に座りながら聴いている。
音の波長から伝わる彼らの笑い声や、心躍るキスを心待ちにして。
神経は剥き出しで、手のひらは汗でベタついている。
洗いざらしのジーンズがそのビジュアルを一層引き立てている。
少し神経質過ぎているのかも知れない。 でも、とても待ちきれなくてドキドキしている。
ファーストキスにはそれら全てが詰まっている。
もちろんSuper JuniorはStation 89.1の顔、というわけではない。
Super Juniorは決してイケてるわけではない。
13人だったり、15人だったり、男としてピンときそうもない少年たち。
でも自分たちの音楽を聴いてくれる人がいる限り、努力を積み重ね、己の価値を証明するために強情なまでに立ち上がり続ける。
かつての彼らは不完全で、残り物の訓練生だった。
誰ひとりとして彼らを信じず、その名を耳にしようものなら、一笑に付されて真っ先に「お気に入りリスト」から跡形もなく消し去られるはずの少年達だった。
でも、たった1つのキスがあればよかった。
たったひとつの不完全で完全なキスと、リスナーさえいれば良かった。
彼らはくだらない決まり事を打ち破り、リスナー達のこめかみ、頬、耳に触れ、音、感覚を畳みかけていった。
あとはもう自分たちを信じて進み続け、決して振り返らなかった。
*
洗面所で自らの憔悴しきった顔を見つめていたヒョクチェは、鋭いノックの音で現実に戻った。
苛ついた金切り声とともにドアが開くと、強張った顔のイトゥクがスッと入ってきた。
些細なプレッシャーが彼の骨の髄まで滲みているようだ。
ふたりはしばらく会話することもなく鏡の前に立っていた。
イトゥクは爪に付いた目には見えない汚れをこすり落とすフリをし、ヒョクチェは、たとえ目が乾いてもこの2時間だけはまばたきだってするものかと自分自身に言い聞かせている。
このふたりの青年は、つまずいたり転んだりしながらもお互いを助け合ってきた。
特に歌唱力があるわけでもない。ダンスだってその片われだけが秀でているだけだ。
それでも様々な歌を通して、迷いながらも胸を張って歩んできたのだ。
「ヒョン…」
イトゥクはお湯でふやけ始めた両手から目を上げた。暫くすれば、そのシワも元に戻るだろう。
多少緊張が残るものの、努めてリラックスした顔を作り、イトゥクは答えた。
「うん。わかってる。」
これは単なるラジオ番組ではない。喉がかれるまで当てどもなく、やみくもにしゃべる場所でもない。
周りから助けられながらも5年3ヶ月もの間、自らの力でゼロから築き上げてきた、彼らにとって誇り高い特別な場所なのだ。
静けさがふたりの背後に忍び寄り圧倒する。イトウクは手の水滴を振り落とすと水道の蛇口を閉めた。
そして丸めた背中を真っ直ぐに伸ばし、胸に押し込められていた喉のつかえが、まるで肌を通して透けて見えたかのように咳払いをした。
「行こうか?」
ヒョクチェはまるで迷子のようだ。
コートにすっぽり身を包み、金色に染めた前髪は伸びきってまとまりもなく、無遠慮に彼の両目に覆い被さっている。
この状況を認めるものかと頑なに据えられたその目は、必死にイトゥクに訴えかけている。
ヒョン、これは全てジョークで、いつもと同じだよね?
息を震わせながら、ヒョクチェは口の端を頼りなげに上げた。
ジョークなんかじゃない。
そしてドアに向かって歩き出した。
あどけなさを残した青年は大人へのステップを踏み出した。
放送開始の赤いランプが点灯する直前、イトゥクは両足を放送席の下に滑り込ませた。
「精一杯やろう?初めての時みたいにさ。」
*
別れはいつだって辛くて胸を締めつける。望まない別れなら尚更で。
それでも成長とは流れに身を任せることでもある。
選曲した曲のひとつひとつ、悪ふざけした様々なスキット、体を激しく震わせて、笑い転げながら不合格を知らせた鉄琴の音、休むことなく動き続けて無数のリスナー達との繋がりを確かめる指先…すべてが愛おしかった。
無数の車が寒空の中を行き交う、静かな夜のむこう側。
リスナー達は胸にヘッドホンとラップトップを抱いて、ベッドの上にうずくまった。
時計の針が真夜中を指そうとしている。
どうにも抗えない、別れの時間がやってきたのだ。
終わってなんか欲しくなかった。
でもその時が来てみたら、それはまるでためらいがちな別れのラストキスみたいに、とてもとても甘い瞬間だった。
「ありがとう」
声を詰まらせてイトゥクが告げた。
ヒョクチェは何も言葉に出来なかった。まるでこの5年間ひとときも休まずに動かし続けた舌が、ここにきてとうとう壊れてしまい、言葉を全て失ったかのようだった。
しかし全身で感じていた。その想いは溢れていた。
聴いてくれてありがとう。見てくれてありがとう。笑ってくれてありがとう。君んちのイスに座りながら僕らと一緒に踊ってくれてありがとう。家路に向かう君たちのお共にしてくれてありがとう。僕らが君たちを愛したように、僕らを愛してくれてありがとう…。
その想い全てがヒョクチェの頭上に幾重にものしかかった。それ程に彼の生活の大きな部分を占めていた番組なのに、どうしてすんなり手放せようか?
最後のキスがリスナーの元に届き、最後の記念撮影の後、ヒョクチェとイトゥクは、両親のハグ、沢山のプレゼント、涙を流してくれたファンへのお辞儀、自分自身の涙…それら全てを抱えて宿舎への帰路についた。
悲しみに打ちのめされ、よろめいていたヒョクチェだが、今にも崩れそうな顔で周囲を見回すイトゥクの笑顔と、つまずきそうな時はいつだってヒョクチェを受け止めてくれる、ドンヘの大きく広げた両腕のお陰で、なんとか自分を保っていた。
乗り込んだエレベーターが上昇する中、ドンヘが11階をスキップして12階のボタンを押しても、いつものヒョクチェなら笑っていただろう。
でも今はとてもそんな気分じゃない。今夜はダメだ。
「さ!降りて降りて!」
12階のドアが開くと、ドンヘはヒョクチェの袖をグイッと引っ張り、厳しい顔つきのイトゥクの肩に腕を回してふたりをせき立てた。
ヒョクチェもイトゥク同様、戸惑っていた。
「ドンヘ?何なの?俺もうクタクタなんだけど…」
ドンヘはドアの前で止まると満面の笑みを浮かべ、カギを探してジーンズのポケットをゴソゴソとまさぐっている。
「分かってるって! いいから、いいから!」
ふたりは見合わせて肩をすくめた。部屋へ入るよう懸命に勧めるドンへに逆らうことは、もはやムダのようだ。
ドンへとイトゥクの後に続き、ヒョクチェは玄関で靴を脱ぐと部屋へ入っていった。
「一体何だって…」
リビングルームはメンバーで溢れかえっていた。
少年から抜け出たばかりのような者もいれば、弟達の世話を焼くすっかり大人びた者もいる。
数え切れない程のCDを積み上げ、みな思い思いに寛いでいる。
ソンミンとキュヒョンの間にはワインが置かれ、シンドンはこんがらがった配線コードと格闘している。
ヒョクチェは隙あらば崩れ落ちそうになる顔面を冷たく固まらせていた。その頬が再び震えてきたが、何とか持ちこたえた。
イェソンはキュヒョンの太ももに敷かれたCDを引っ張り出すと、シウォンが大笑いする中、パシッとその後頭部を叩いた。
「俺たちのバックアップなしで最後までやれただなんて思ってないだろうな?結局俺たちSuper JuniorのKiss The Radioなんだぜ?」
泣くまいというイトゥクの決意もとうとう溶け出し、緊張の糸が緩み、その安堵が頬を伝う涙となって表れた。
ソンミンとシンドンは突っ立ったままのリーダーを引っ張って座らせると、誰に捧げるのでも構わないから一番始めにかけるDCを選ぶように言った。
イトゥクはここに居るみんなに捧げると言って「Miracle」を選んだ。だがその曲には自分が入っていないとキュヒョンが不満を漏らしたので、次の「Dancing Out」でマンネの機嫌を取った。
しばらくブツブツ言っていたキュヒョンだったが、ようやく満足して笑顔になった。
ヒョクチェは彼らが即席にこしらえたラジオ局を見渡した。
いつものようにシンドンの軽いジャブから始まり、ソンミンが椅子から笑い転げ落ち、シウォンはこれら大騒ぎの中心から距離を置いていたにも関わらず、顔を総動員して彼独特のリアクションを見せている。彼らは次つぎとレコードをかけ、思い出の中だけに留まることが我慢できずに湧き出てくる様々な記憶のドアをノックしてまわった。歌い、酔い、ちょっぴり涙をこぼして。
それは時折見られるいつもと同じ心のふれあいと何ら変わらない様子だった。
ソンミンはシンドンのiTuneライブラリからエピカイを見つけると、懐かしい曲をランダムに選び、タイマーがちゃんと動くかどうかを確かめた。そして様子を伺うような手つきでヒョクチェにパソコンを差し出した。
ヒョクチェは直ぐさま涙のつららを振り拭った。するとそれはたちどころに溶け、笑顔となってソンミンへ届いた。
ヒョクチェはソンミンの手を素早く握り、優しい兄の安堵のため息を自分自身のそれと交わした。
ワインボトルがあまりにも早くからっぽになり、もっと欲しいと誰かが文句を言ったが、誰もその場から離れたがらなかった。ヒョクチェが補充をすると言ったが、その動作がひどく緩慢であることは否めなかった。後頭部を押さえつけられるような感覚が未だに残っており、天井が彼の上に崩れ落ちてくるようで、とにかく一息入れたかった。
ヒョクチェはキッチンへ行くと、合わない焦点のままボンヤリと冷蔵庫の中を見つめていた。そして背後から近づいてくる足音に我に返りドアを閉めた時、ドンヘが自分の頭上のフリーザーに手を伸ばしてきた。
ヒョクチェの視線は冷蔵庫からゆっくりとドンヘの手に移った。
「お前のアイディア?」
ドンヘはワインボトルをカウンターに置いた。
「ソンミンヒョンと、リョウクも手伝ってくれた。でも、そうだな…うん。おれが責任者だよ。」
ヒョクチェのくちびるは半分嬉しそうに、半分嫌そうに歪んだ。
「だと思ったよ。」
ドンヘは満面の笑みを浮かべながらカウンターに寄りかかった。キッチンはリビングよりもずっと静かだが、それだけ寒々としていて辛い気持ちも増していきかねない。
「今夜のヒョンとおまえ、最高だったよ。」
「おれ、メチャクチャだった…」
ヒョクチェは息を吐いた。その手はまだ少し震えている。
冷えた空気のせいかも知れない。あるいは胸の中に無理矢理封じ込めていた感情が漏れ出たのかも知れない。
「噛んでばかりだったし、あの曲のタイトルも思い出せなかった。それに― 」
ふたたびヒョクチェが落ち込みそうになる寸前、ドンヘは両手でその言葉をさえぎった。
そして自分の温もりだけを感じるよう、ヒョクチェを抱き上げ自分の傍らのカウンターに座らせた。
「おまえは完璧だったよ。」
ヒョクチェの胃袋は全身でそれを否定し、心臓が喉をめがけて込み上げてきた。
その肺は胸を苦しく締め付け、骨という骨がヒョクチェの眼球に集まり、瞼の裏側を素早く突いてくる。
涙が再びあふれて、その睫毛を濡らした。
「じゃあ何でおれ、今はこんなに惨めなんだろう?」
「そんなことない。」
リビングルームから沸き上がった歓声をよそに、ドンヘは静かに言った。
誰かが誰かを叩いたとか、リョウクのヘッドホンを壊したとか、明日にはきっと誰かが青あざを作っていることだろう。
「うまく言えないけど…お前は最高だからさ、ヒョクチェア…。」
ヒョクチェがカウンタートップに描かれた連続模様の柄から目を離して顔を上げると、ドンヘの目と行き当たった。
そのひとみはヒョクチェと同じくらい悲しみを含んでいたが、どこか違っていた。
まるで自慢したくてたまらない秘め事を、こっそり隠しているかのように微笑んでいる。
こんなだから、ヒョクチェはやっぱりドンヘに敵わないと思う。
きっとこの苦しさはヒョクチェの上に重くのしかかり、彼の骨をへこませるかも知れない。しかし今ヒョクチェがわかっているのは、自分の顔が涙で濡れていることと、嗚咽をこらえて身悶えするほどに肩が震えていることだ。
ドンヘがヒョクチェを腕の中に抱き寄せた途端、ヒョクチェは我慢できずにドンヘにしがみつき、その首筋に顔を埋めて声を押し殺して泣きだした。ヒョクチェの初恋の終わりを悼むかのようにその細い腰を抱きしめると、ドンヘはただヒョクチェの髪の中に自分の鼻を埋めて、その背中を優しく、しっかりと撫で続けた。
「ありがとう。」
暫くして、ヒョクチェはじめじめした声を絞り出した。
今夜だけでもう一生分くらい泣いたかも知れない。
「なにが?」
ドンヘは尋ねた。
その声はヒョクチェと同じくらいしわがれていて、まるで彼自身の心も引き裂かれたみたいだった。
ヒョクチェは少し顔を引くと、目を閉じてドンヘの肩に額をコツンと乗せた。
「今夜来てくれたこと。いつも聴いてくれたこと。いつも電話してくれたこと。それから…」
いつ終わるとも知れない真夜中、ドンヘはいつだって彼らと一緒に起きていてくれてた。いろんな歌を一緒に歌ってくれた。頼まれればいつだってイトゥクの代わりを務めてくれた。
ヒョクチェが到底笑顔になんかなれそうにない時も、微笑ませてくれた。一時のきまぐれな恋に破れた時だってそうだった。
「ありがとう…そばにいてくれて。」
ヒョクチェを抱きしめるドンヘの両腕が一瞬、強まった。
ヒョクチェはこめかみを通してドンヘの笑顔が流れてくるのを感じ、それはヒョクチェのくちびるに笑顔を呼び戻した。
「あーまあ他にやることもなかったからね。」
一瞬ドンヘを見上げると、ヒョクチェはそのアゴをドンヘの胸にグリグリと食い込ませながら前髪越しにドンヘを睨んだ。
「おまえはいつだって、やることがないんだろ!」
「夜10時から12時まで、この国で一番やることがない芸能人だからね。」
ドンヘは聞こえよがしに独り言を言うと、胸にくっついているヒョクチェの額を少し離して顔を見て、指で金色の前髪を梳いてはパラパラと乱した。
ヒョクチェはドンヘの胸をつつくと、いきなり全体重をかけた。ドンヘは抵抗するが押し戻しもしなかった。
キッチンカウンターの上でお互いの腕や脚、乾いた涙や優しい笑顔も総動員してもつれさせたため、ふたりの体は更にぴったりと密着した。
「おれはこれからどうすればいいのかな?」
ヒョクチェはため息をついた。寒い屋外に放り出されて迷子になったようなこの最悪な気持ちを誰が察してくれるんだろうか。
「自分だけ?」
ドンヘは咳払いをした。その指はヒョクチェの髪に絡んでいる。
「おれこそどうしたらいいんだよ?一晩中、退屈になっちゃったよ。」
「…ごめん。おまえのこと、全然考えてなかった。」
「いいよ。しょうがないよ。結局おまえは自己中のうぬぼれ屋なんだから。」
ヒョクチェはドンヘの脇腹に軽いパンチをお見舞いした。しかし心地よい熱を与えてくれるドンヘの腕の中はあまりに暖かすぎて、そこから離れることなど出来そうになかった。
「こんなことしたって、ちっとも気分良くならないんだから。」
「わかったわかった。」
ドンヘは一瞬ひるんだがヒョクチェを離さず、少し前かがみになってヒョクチェの後頭部を片手で支えた。
「さーて、今夜はふたりで何か楽しいことしようよ?」
ドンヘはまるでこの場は自分が仕切るぞと言わんばかりに大声で言うと、即興で適当な曲をこしらえて、ハミングしながら体をくねらせた。
「トゥギヒョンは?声掛けないの?」
「うん。ヒョンはもうすぐ寝ちゃうよ。数年分の寝不足を解消しないといけないからな。」
「じゃあ、おれとお前のふたりだけで?」
「他に誰かいる?」
そうこうしているうちに、ヒョクチェのからだは次第にフラフラとぐらつき始めた。
ドンヘの低いハミングのノイズとダラダラ話すやわらかい声が心地良い眠気を誘う。
明日のシュキラのことはもう考えなくていいんだ。もう終わったんだ。
ドンヘの手がヒョクチェの後頭部から襟足に移り、その前髪が不意にヒョクチェの顔面を覆うと、ヒョクチェはうるさそうに呻いた。
「今、寝てた?」
「いや。」
ヒョクチェはあくびをしながらウソをついた。
「おまえが何か言うのを待ってるんだ。」
ドンヘは口を尖らせて、ため息をつくと話し始めた。
「今夜は徹夜で日本のドラマを見ようか。LOSTを最後まで見るのもいいな。おまえはまだセッション5までしか見てないし、おれはセッション4の後の話は見たけど忘れちゃったし。キュヒョンとゲームをしてもいいよ。あいつ誰かを叩きのめしたいんだから。でも本気でムキになったらダメだからな?あいつキレると面倒くさいから。それとも出掛けようか?昔みたいに漢江のほとりに座ってさ、ライトアップを眺めながらプルコギを食べるんだ。それから…」
言いながらあくびをし、ドンヘはこのとめどもない気まぐれな話しを思い切り楽しんだ。
腰をぶつけ合い、そのくちびるは囁く度にヒョクチェの耳たぶに軽く触れた。その声からもドンヘの懸命な想いが伝わってくる。
「じゃなかったらさ、何か曲かけようよ。おまえがDJして、おれは聴いてるから。
おれはこれからも、いつだっておまえのDJを聴くから。おまえだけのヘビーリスナーだから。」
いつからなのか分からない。
いつの間にかヒョクチェの両腕はドンヘの引き締まったウエストを抱いていて、両手はドンヘの背中で固く握られていた。
ドンヘの口からこぼれ落ちる、小さな約束が織り交ぜられた一つ一つの言葉がヒョクチェの心を突き刺し、と同時に修復していった。ヒョクチェは頭を傾けて、まぶしそうにドンヘを見つめた。
「おまえもトークしていいよ。」
ドンヘは微笑むと、ヒョクチェの頬に付いている涙の痕をこすった。
「ちゃんと聴いてくれる?」
「うん。聴いてなくても、聴いてるフリするよ。」
ヒョクチェは約束した。
「そうしてくれればいいよ。あとは何もいらないから。」
ドンヘがヒョクチェの頬骨にくちびるを押しつけると、ひんやりとした感触がヒョクチェに伝わった。
こんなキスは初めてではないが、いつだってヒョクチェを元気づけてくれる。
家路へ帰る道で手を繋ぐ誰かを見つけた時のように、あるいは見つけてもらえた時のように。
そして唇と唇が合わさる時のように、それはいつでも心を温めてくれる。
自分のために家の明かりを常に点けたままにしてくれる愛しい人が自分にはいるのだ。
「ワインまだー?」
リビングからの大きな声で、静寂が破られた。おそらくソンミンかキュヒョンの声だろう。
ヒョクチェはクスクスと笑い出し、一歩ドンヘから体を離した。ドンヘもゆっくり体をカウンターから離し、眉毛を八の字にさせて微笑みながらヒョクチェの前髪を整えた。そしてすっかり忘れられたワインボトルを掴むと、ヒョクチェが服を整えて、目と鼻のあたまをムダにこするのを見守った。そんなことをしたってヒョクチェの目は腫れぼったいままだし、鼻のあたまはまるでクリスマスツリーの装飾電球のように赤々としている。しかし、ヒョクチェは微笑み、そのお返しにドンヘの目は明るく輝いた。
「行こうか?」
ヒョクチェはほんの一瞬立ち尽くした。
ソウル市内の道路はまだ車がせわしく行き交っている。人々は今もベッドにもぐり込んでラジオを聴いているのだろう。好きな番組が終わるまで、速度を緩めながら太陽を追いかけて。
ヒョクチェのリスナーも、そのうち誰か他のラジオ番組を聴くだろうし、ヒョクチェ自身もひとりぼっちの迷子みたいな気分から、じきに抜け出せるだろう。
今、ヒョクチェには自分の声を聴いてくれる耳も、自分のキスを受け止めてくれる唇もある。
明日も、あさっても、これからもずっと、自分の目の前に。
「うん、行こう。」
(おしまい)
お付き合いいただき、ありがとうございました。