- Title: Aquiesce
- Language: Japanese
- Rating: NC-17
- Pairing: Kaka/Shevchenko, Kaka POV
- a disclaimer: Of course, it's all fiction.
- Summary: It's all about their painful parting.
A q u i e s c e
彼の目は僕に未完成の永遠を教えた。
この地上に永遠なんてありえないからこそ求める瞬間の輝きを。
2006年5月7日 パルマ・アンチェロッティ邸
ホームパーティーは隠れ場所がないのが困るんだ。
午後の試合でゴールを決めた後とは思えないほど沈んだ気分だった僕は、あるいは気遣わしげに、あるいはお気楽に声を掛けてくるチームメイトたちにやや閉口しながらパーティーを生きながらえていた。
僕の頭の中は彼のことでいっぱいだった。
ついさっきの試合、膝をひどく痛めて退場した彼、アンドリイ・シェフチェンコ。彼が導いた祖国の夢、ワールドカップを目前にして!
彼にとって今夜がどれほど不安な夜だろうか、それを思うとどうしようもない気持ちになる。携帯電話を取り出してはため息をつく。電話なんか、掛けられるものか!
とうとう、ホストである監督みずからがワインのボトルを持ち上げながら僕のもとへやってきた。僕は反射的に言ってしまう。
「友達が苦しんでいる時に、ワインなんか飲んでいる気分じゃないんです。ごめんなさい、ミステル」
静かに言ったつもりだったのに、近くにいた何人かが、やばい、という顔をこちらに向けた。
監督は僕を怒らなかった。
ただ、僕を見た監督の表情が妙に寂しげだったのだけが妙に気にかかった。
2006年5月14日 セリエA最終節 ミランvsローマ
僕のゴールはまたPKだった。
嬉しく思わないほど僕は傲慢じゃないつもりだけど、僕が蹴ったのは僕らのチームの唯一無二のキッカーがいないから、それだけのことだ。
彼はサン・シーロのクルヴァでティフォージの真ん中で僕らの試合を見ていた。
シェヴァは先週の試合でひどい時期にひどい怪我をしただけではなくて、ミランを離れる可能性について語り出した。
それがゴシップ誌の紙面ではなく、彼の口から語られたことであっても、僕はそんなことを信じようとしなかった。
僕らはただのチームメイトなんかじゃない、だから彼が僕の居るチームを離れるなんてありえないと思い込んでいたのだ。
それでも僕はその数日間、彼にそのことを尋ねる勇気がなかった。彼が怪我で休んでいるのをいいことに、そのまま日曜日を迎えてしまった。
”Sheva, resta con noi…”
クルヴァにシーズン最後の挨拶をしてロッカールームに向かう僕らの後ろから、シェヴァの残留を望む、というよりは嘆願するようなティフォージの大合唱がいつまでも追ってくる。
ピッチの上から、僕も一緒に叫びたい気分になりながら、たくさんのカメラのレンズが向く方向から彼の居る場所を探しあてた。
僕の近眼ですら、彼が涙を拭っているのがわかった。
泣くくらいなら、出て行く必要なんかないのに。
それとも、このクルヴァのエネルギーにすら、応えられないから泣いているのだろうか。
ロッカールームで、チームメイトたちは蜃気楼みたいだったスクデッドについて語っていたのだろうか、それともワールドカップの話でも?
僕はただ自分のロッカーの前の椅子に座って、唇を噛み締めたままぐるぐると考え続けていた。彼のことを。
どれくらい時間たったのか、ふと目を上げると真ん前にシェヴァ本人が立っていた。
僕は弾かれたように立ち上がる。
彼の目の周りは真っ赤になっていて、クールできれいな顔は僕がいままでに見たことがないほど、複雑な苦悩にゆがんでいた。
僕はそんな彼の顔を見ただけで両目に涙が浮かんでくるのを感じた。
それなのに彼は、僕の切りたての髪に指を通して、穏やかな声で僕に言った。
「素晴らしいゴールだった、リッキー」
あなたが居ないから、僕が蹴っただけです。早く、戻ってきて!
そう言おうとしたけれど、言葉にならなかった。
僕はチームメイト全部と彼との前で、子供みたいに声を上げて泣き出した。
彼はすぐに、震える僕の肩を力をこめて抱きしめてくれた。
彼もまた、静かに涙を流していた。
試合の後、まだ着たきりだった泥だらけの僕のシャツの赤と黒とに、彼の熱い涙が染みてゆくのを感じた。
彼がそっと部屋を出て行ってからも、僕はずっと声を出して泣いていた。
誰一人、僕に声をかけられる人なんか居なかった。
ミラノの5月はおそろしく日が長くて、僕は途方にくれていた。
サン・シーロを出て、そのまま家に帰る気にはなれず、かといって誰もあの状態の僕をパーティーや夜遊びに誘う奴なんていない。
町外れの空き地の水道で、涙でかさかさになった顔を洗った。短く切ってしまった髪にも一緒に水をかけた。
首にかけたタオルで水を拭う僕に、サッカーボールを抱えたひとりの少年が近づいてきた。
「あの、ひょっとして、きみはカカー?」
小学生だろうか、僕が昔そうだったみたいに、ひょろひょろで頼りない。
僕が入るより何年か前の、ミランのレプリカシャツを着ていた。
「そうだよ。僕らを応援してくれてるんだね、ありがとう」
僕は出来るだけの笑顔を作った。
少年はものすごく真剣な顔で僕に聞く。
「ねえ、もしよかったら聞きたいんだけど・・・シェヴァはミランに残るかな?」
僕は少年の目の高さまでかがんだ。
「僕もそう願っている。彼は本当に本当に、ミランが好きなんだ。それだけは本当だから、一緒に信じよう」
少年は少しだけ顔を緩めた。
「きみとシェヴァは、親友なんでしょう?きみの言うことなら、きいてくれるかもしれないから、頼んでみて」
僕は黙って頷いた。
「約束だよ!」
少年は恥ずかしそうに急いで走り去っていった。
彼のシャツの背中には、大きな7番の数字と”SHEVCHENKO”の文字。
せっかく洗った顔がまた涙にぬれてしまう。
僕は道端に停めた車に戻る。
僕はあの少年に嫉妬していた。僕がシェヴァを知るよりも前に、シェヴァを崇めていた少年に。
僕はそのまま所在無く、夜が更けるまで適当に車を走らせていた。
チャンスは今夜しかないのだ、と何度も自分に言い聞かせた。
夕刻の少年の言葉を、意気地なしの僕が言い残した言葉をシェヴァに伝えなくては。
しかしアクセルを踏む足すら震えるようだった。
シェヴァの結論を聞くのが怖かった。
彼を失うのが。そして、彼が彼自身の決断で僕を離れていくという事実に直面するのが怖かった。
車の中で何時間も自分自身と向き合って、もうとっくに気づいていたことを痛いほど自覚する。
僕が彼を愛していること。どうしようもないくらいに。
車のメーターの脇の時計が11時を回った頃になって、とうとう僕はシェヴァの家の前にやってきた。
この3年の間に、何度ここに来ただろう?
ゴルフを教えてもらったあと、負けてむくれながら。
あるいは、もう歩くようになった息子の自慢話を聞きに。
あるいは、トレーニングの後の他愛のない話があまりにも盛り上がったから。
こんな気持ちでこの門の前に立つことがあるとは、思ったこともなかった。
イタリアで一番美しいコモ湖のほとり、彼が好んだ静けさすら僕をひどい孤独に陥れる。
そっとエンジンを切って車を降り、しばらくためらってから門のインターホンを押す。
「リカルド・カカです、遅くにすみません」
無言でロックが外され、招かれざる客の僕は長いアプローチをとぼとぼと登った。
僕は何をしにここまでやってきたんだろう。こんなに自分が無力に思えたのはいつ以来だろうか。
ぼんやりと立つ僕の前で玄関のドアが開き、奥さんが顔を出した。
「ボナ・セーラ」
疲れているのか、それとも僕が面倒な客だということに気づいているのか、明らかにいつもと様子が違う奥さんの後ろから、少し左足を引きずりながらシェヴァが現れる。
僕の胸はひどく痛み、もう鼻の奥が熱くなってきた。
「リッキー、どうした?入れよ」
僕は足に根が生えたように立ちすくんで動けなかった。
シェヴァは僕のそばまでやってきて、促すように肩に手を回した。
それから奥さんに先に寝ていていいよ、というようなことを言って、僕を2階にある客用の寝室に直接連れて行った、というより押し込んだ。
「あ、いいですよ、すぐに帰るから」
戸惑う僕にシェヴァは穏やかに言う。
「せっかく来たんだし・・・こんな時間だから、気にしないで泊まっていけよ」
彼の独特の穏やかな顔。
こういう表情をしている時はろくなことがないのをよく知っている。
この氷の仮面に隠された、独りよがりの強さと弱さ、どうしようもないストライカー気質。
彼は僕が何をしに来たのか知っていたんだろうか?
僕自身すら、何をしにここまで来たのかよくわかっていなかったのに。
僕はなすすべなくベッドに腰掛けた。シェヴァは僕に言葉も何も求めず、近くの壁に寄りかかって静かに立っている。
こんな居心地の良い小さな部屋にシェヴァとふたりきり。
ひどく濃密な空気を僕はやっと呼吸していた。
こんなことは今までに何度となくあったけれど、これが最後かもしれないなんてことは一度も思ったことがなかった。
ひとは幸せには無自覚で、それが終わる可能性から目を背けようとするものだ。
シェヴァはそうではなかったのかもしれない。
僕に黙って、ずっと何を見つめていたんだろう。
僕のスルー・パスが完全無欠のタイミングで彼に通った瞬間から、僕は彼を誰よりも理解していると信じ込んで自惚れていたのに。
「僕はあなたのことを誰よりも理解してる。それでも今のあなたを全然理解できない!」
僕はシェヴァの顔に、無理矢理視線を固定して、挑戦するように言った。
彼の誠実さを、僕は絶対に疑わない。
彼はこんな時でも、目を逸らすことなく僕を見返すのだ。
「理解しないと、友達でいられないかい?」
シェヴァは本当に、本当に悲しそうだった。
僕は試されていた。
肌の色の、育った町の匂いの違いさえも超えて、僕らは何でも共有できると思っていた。
僕の問いかけを初めて拒んだ彼を、ひどい失意の中でも僕は愛していた。
僕は真っ直ぐに立ち上がって彼のもとに歩み寄った。
彼が左脚をかばって立っているせいで、僕の目のわずかに下にシェヴァの美しい顔。
「もう、二度とこのことをあなたに訊くことはしない。だからあなたも、僕に何も訊かないで」
僕はそれだけ言って、彼の口を塞ぐように唇を奪った。
夢にまで見たその唇の感触、そして本能が覚えている彼の匂い、そのすべてが僕を泣きたいほどに狂わせた。
僕は彼に拒まれることを覚悟していた。
驚いたことに、彼は軽く顎を上げて、もっと深い口付けを求めるような仕草をした。
彼もまた、僕を求めていたとしたら?
僕は夢中で彼の頭を引き寄せて、唇の間に舌を割り込ませた。
彼と交わした全ての抱擁と同じように温かく、一度も経験したことのないほど熱かった。
僕は角度を変えてもう一度、より深く口付けた。
意志の強い彼の唇が僕を受け入れ、舌が絡み、僕はますます夢中になる。
自然に唇が離れるまで、僕はその静かで熱いキスに酔っていた。
そっと目を開けると、すぐ近くにシェヴァの美しい顔。きれいに切りそろえられたダーク・ブロンドの髪の下の静かに閉じられた目。
彼が何を考えていたとしても、僕は彼を欲しいと思った。
僕が彼を失いたくないのではない、僕がこの心の中から彼を失うことなんてありえない。
彼から僕が、永遠に失われないようにしたかっただけだ。
僕はシェヴァを、僕のために用意されたベッドに押し倒した。
彼が悲しんだとしても、僕は自分を止められないことをすでに予感していた。
僕の身体の奥に生まれた熱が、ずっと心の底で求めていたことに僕を差し向ける。
僕は体重をかけてシェヴァをベッドに沈めるようにした。体重の分だけ密着する身体を、僕は痛いほど意識した。
シェヴァの左足を傷めないように(こんな時にそこにだけは考えが回るのだから、僕らは芯からサッカー選手だ)身体を少しずらすと、僕の左脚が彼の両脚の間に挟まる。
シェヴァがさっと身を硬くするのを感じて、僕は思い切って膝をぐっと進めた。
「シェヴァ、僕を感じて」
僕はシェヴァをジーンズの厚い布の上から刺激しながらもう一度口づけた。
シェヴァはまた、僕の求めに答えた。
絡み合う舌が、唇が離れる時に糸を引いた唾液が、まるで僕の執着のようだった。
彼は余韻に揺れる瞳を懸命に僕に据えて、最後に一度だけ説教をした。
「後悔しないのか」
そんなことを聞くなら、なぜ、僕が後戻りできないほどのキスで応えるのか?
「しない。それは、あなたが教えてくれたことだから」
すぐに失うことを知っているものを一瞬だけ求めるなんて、愚か者のすることかもしれない。
それでも構わなかった。今以上の痛みなんてあるだろうか。
僕はまず自分から、着ていたシャツを脱ぎ捨てた。
火照る肌が求めるがままに、僕は彼のポロシャツを裾からまくり上げ、素肌と素肌とをあわせた。それだけで思わずため息が漏れてしまう。
スクデッドを獲った晩、汗と雨とにまみれた裸の身体をぶつけて抱き合った時の感触を僕はまざまざと思い出していた。
僕はあの時、はじめて僕がシェヴァを求めていることを意識した。彼の腿に触れた僕のその部分が浅ましく反応するのを感じて、これは度外れた興奮のせいだと自分に言い聞かせながら、それでもわかっていたのだ。
「シェヴァ、ずっと君が欲しかった」
僕はシェヴァのシャツを脱がせ、片手でジーンズのボタンフライをもどかしく外しながら、慣れた彼の匂いを吸い込みながら首筋に顔を埋めた。
それから、祝福の言葉ばかりをささやいた耳に欲情まみれの吐息をかけて舌でなぞると、シェヴァはせつなげに顎を上げて首を振った。
僕は唇にもう一度軽いキスを落としてから身体を起こし、ジーンズと下着とをまとめて引き下ろした。
シェヴァの鍛え抜かれた、それでいてどこか繊細な身体のラインは僕の見慣れたままで、ただゆるく立ち上がりかけたそこだけが違っていた。
僕は自分でも驚くほどためらいなく、彼の脚の間に身体を入れて顔を埋めた。
「リ、リッキー・・・?」
シェヴァは弾かれたように顔を上げて僕を見た。
僕は彼のものを口に含んだまま、もしかしたら微笑んでいたかもしれない。
僕が彼にこんなことをする夢をみながら、彼の隣のベッドで眠っていたことがあるなんて言わずもがなだけれど、僕はただ彼のすべてを味わいたかったのだ。
永遠に彼を失う恐れと、かすかな期待とにもみくちゃになりながら。
僕はシェヴァを狂わせるのにどうしたらいいのかよくはわからなかったけれど、いつの間にかシェヴァは眉根を寄せて荒い息をつきながら、片手でシーツをくしゃくしゃに握り締めていた。
せつなくなった僕はシェヴァの手を取った。
シェヴァは僕の手に縋るように指を絡めてきながら、その手で僕の顔と頭とをなぞった。
そして彼は僕の頭を自分自身から遠ざけようとするように、それでいてひき付けようとするようにもどかしく僕の髪をつかんでいた。
僕はもう絶望的なほどに、シェヴァのすべてが欲しかった。
片手を後ろに回して抱えるようにしながら、指を後ろに這わせて、さらにつき立てた。
シェヴァの背中が反り返る。
「っ、リカルドっ・・・」
そのときのシェヴァの声、それはシェヴァが僕の口の中で達したということよりもさらに、僕を頭の髄まで痺れさせた。
彼が僕のことをそう呼ぶのは、本当に真剣な話をする時だけだったから。
僕は飲み下しきれなかったものを手の甲で無造作に拭いながら、ものすごくワイルドな気分に酔っていた。
まだ焦点の定まらない目で僕を見上げているシェヴァに、僕は微笑みかけていた。それはたぶん優しい微笑みではなく、悪魔に魅入られたようなものだっただろう。
僕の故国の偉大な先輩達は、よくゴールの喜びをセックスの絶頂の快感に例える。
僕にはいまひとつそれがよくわからなかった、彼と出会うまでは。
彼がいつかシューズを脱ぐ日まで、一緒にプレイができるなら、僕はこんなことをしないで済んだだろうと思う。
たぶん―――今となっては、それすらも頼りないけれど。
僕はもう一度彼の脚を開かせるように身体を割り込ませた。
僕の片手が内腿を擦り上げると軽い震えが走るのを感じた。
シェヴァの身体は僕を求めている。そして、僕も。
間違っているのは僕か、彼か。たぶん両方だ。人は罪深く、間違ってばかりいる。
僕は彼が僕の手に残した液体で自分自身を湿らせた。それだけで甘い痺れが背筋を駆け上った。
そのまま彼の右脚を抱え上げるようにして、僕はとうとうシェヴァの中に入った。
「シェヴァ、シェヴァ、ごめんね」
彼のストイックな横顔が痛みにゆがむのを見ながら僕はそう呟いていた。
でも、もう止められないんだ、他にどうしようもないんだ。
少し惨めな気分になりながらも、僕の身体はもう彼を突き上げたい欲求で一杯だった。
そのとき、シェヴァの右手が伸びて僕の髪に触れた。
夕方に、ロッカールームでそうしてくれたように、彼の指が僕の髪を梳く。
僕は彼に受け入れられたことを感じた。
どうしてあなたは、僕にそんなに優しいの?
どうしようもなく愛しく、そしてかなしい気持ちになって僕は夢中でシェヴァに口づけた。
身体を繋いだままのキス、そしてものすごく近い距離で彼の顔を見る。
「ねえ、もう一度ファースト・ネームで呼んで・・・」
僕はせがむようにささやいた。
「リ、カ、ル、ド・・・」
シェヴァが掠れた声で僕の名前を呼んだその唇を、僕はそっと指でなぞった。
指先に感じる熱い吐息に耐え切れず、そのまま指を口の中に入れた。
絡みつく湿った熱さが、さらに僕を狂おしくかきたてた。
もうどうしようもなくなって突き上げる僕を、シェヴァは僕に負けない強さで応える。
彼の爪が僕の肩に食い込む痛みに、僕はシェヴァが僕にとって永遠の楔として残ることを知った。
願わくは、僕もそうでありますように。
それだけを願いながら、僕は彼の一番奥まで突き上げ、その中に僕のすべてを放った。
シェヴァ、行かないで。僕のそばを離れないで・・・!
僕はそのときそれを声に出しただろうか。
体じゅうの熱が全て逃げてゆくような脱力感のなか、僕は彼の幻を抱くようにその身体を抱きしめた。
その時僕ははっきりと知った。
彼が僕のもとを去って行くだろうということを。
僕を受け入れ、愛してくれる彼はそれでも、ここから離れていくのだ。
2006年5月25日、スイス・ブラジル代表W杯直前合宿所
ミラノを離れた僕は、ひたすら練習に打ち込んでいた。
なるべく独りにならないように、イタリア語を話さない仲間たちとできるだけ一緒にいた。
それでも、ひとりの時間は必ずやってきてしまう。
あの朝、夜明け前に彼の部屋を出てゆくとき、あれほど鮮明に悟った別れだったのに、時間がたつとまた、ぼんやりした期待に縋ろうとする自分が嫌だった。
ベッドサイドの台に置いてある携帯電話が突然に鳴り、僕は恐怖の目で小さな機械を見た。
息を吸い込み、震える手でそれをつかんでボタンを押し、耳に押し当てる。
口の中はからからで、挨拶の言葉さえもうまく出てこなかった。
「シェヴァ・・・」
なんとか言い切った声は、自分のものとは思えないくらい震えていた。
アルプスを隔てた向こうにいるシェヴァは、たぶんずっと考えてきたのだろう言葉を、静かに僕に伝えた。
「きみへの愛が叶った以上、僕をここに縛る最後のひとつが解けたんだ。思い残すことは、もうない」
僕への愛。たしかに彼はそう言った。
僕の頬を暖かい涙が伝った。一言も返せない僕に、シェヴァはそっと諭すように続けた。
「叶わなかった僕の最後の夢―――本当の「ミラニスタ」になるという夢はきみが叶えてくれたらと思う。全てはきみしだい、だけど」
すべての夢をかなえてきた彼が、なぜその夢だけを諦めたのか。
彼がそれ以上僕に話すことはないだろう。
それから僕らは、ただ互いの息遣いだけを電話越しに聴いてから、一言も交わすことなく電話を置いた。
2006年5月27日、スイス・ブラジル代表W杯直前合宿所
彼の記者会見を、僕はミーティングルームのテレビで見た。
画面から結構離れていたので、近眼の僕にはシェヴァの表情は見えなかった。見る必要もなかったし、見たいと思わなかったから。
そっと部屋に引き上げる僕を、故国の心優しい仲間たちはただ静かに見送ってくれた。
今、彼らに囲まれていられることを心から感謝する。
fin
2006.09.29